八街西教会(伝道所)

教会案内

神は独り子を世にお遣わしになりました。
その方によって、私たちが生きるようになるためです。
ここに、神の愛が示されました。(聖書のことば)

“神さまの愛にこたえて神さまを愛しかえすことのほか何も、
望んでおられないという事を”
知る時こそ幸いになれます。(ブルンナーの書より)
どうぞお出でを心よりお待ちしています。ご一緒に神さまの愛を解らせていただきましょう。

日本キリスト教団 八街西教会(伝道所)について

2005年7月10日 日本キリスト教団の伝道所として開所いたしました。
現在会員数は11名。中国語を母国語とする方が5名います。
礼拝の聖書朗読と説教は、中国語でも聞けるようにしています。

集会の案内

  1. 日曜礼拝: 毎日曜日 午前10:30~11:30より
    礼拝後、聖書の輪読会をしています。
  2. 教会学校: 
  3. 早天祈祷会: 
  4. 祈祷会: 毎木曜日 夜7:30より 
    ちいろば 榎本保朗牧師旧約聖書講座のテープでみことばにふれます
    植西牧師を介してのみちびきを得られます
    次回は 列王記下  14章です。

家庭集会: 

当教会はエホバの証人・モルモン教・統一教会とは一切関係ありません。
聖書のみを信じる正統派キリスト教会です。

ご連絡先

日本キリスト教団 八街西教会(伝道所) 牧師 植西光雄

所在地: 千葉県八街市大関177-27

Tel/Fax: 043-442-3766

Mail Address: uenishi.mitsuo@gmail.com

2019年5月12日 説 教 要 旨

聖 書 ヨハネによる福音書 6 ;22~40 约翰6: 22 - 40

説 教 題 「 イエスは命のパン 」《耶稣是生命的粮》

五千人給食の奇跡を見て人々はイエスを王にするため連れて行こうとしましたが、(6;15) イエスは一人 で山に登り祈っておられました。弟子たちだけで舟を漕ぎだし向こう岸に向かいました。群衆はそれを見 ていました。すでに暗くなっていましたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられませんでした。途 中で強い風に逢い、漕ぎ悩んでいたとき、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいてこられるのを見て、弟子 たちは幽霊だと思い、驚き 恐れました。イエスは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と 言われたので、弟子たちの恐れは消え、喜んでイエスを舟に迎え入れました。イエスが舟に乗り込まれる と、風は静まり、間もなく舟は目指す地に着きました。イエスが湖の上を歩かれた奇跡は、弟子たちにだ け見せられたものでした。この経験は、弟子たちに、どんな困難な嵐の時代にも、イエスに信頼して歩む べきことを教えました。

大众看见了耶稣供给五千个人的神迹,就要带他去做王。耶稣在山上一个人祷告了。只有门徒们就坐船去对 岸。大众也看他们去。天已经黑了。耶稣还没回来他们那儿。门徒们途中遭遇大风难得前进,这时候耶稣走 湖水上,过近来了。他们都以为是幽灵,很着急害怕了。耶稣说《放心吧。 是我,不要害怕。》 门徒们就 放心不再害怕,就很高兴接受耶稣上船。 耶稣进来船上了,大风就安静了,他们不久就能到目的地了。耶稣走湖面的神迹只是给门徒们看的。这经验 教训门徒在怎么样的情况之下总要信靠耶稣。

パンの奇跡を見た群衆は、まだイエスを地上の王にしたいと考えて、イエスを追いかけてきました。カ ファルナウムまで来て、「ラビ、いつここにおいでになったのですか」と聞きました。イエスは「はっき り言っておく、あなたがたが私を捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したか らだ、朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きな さい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからで ある。」と言われました。人々が「神の業を行うためには、何をしたら良いでしょうか」と尋ねたので、 イエスは「神がお遣わしになった者を信じること、これが神の業である。」とお答えになられました。神 がお遣わしになったイエスを真の霊的食物を与えて下さる方として信じることが最も大切なことでありま す。

看见供给饼神迹的众人还想把耶稣做王追他去。到加百农了就问说《拉比,你什么时候到这里来呢》 耶稣 说《我实实在在的告诉你们、你们找我、并不是因见了神迹、乃是因吃饼得饱。不要为那必坏的食物劳力、 要为那存到永生的食物劳力、就是人子要赐给你们的.因为人子是父神所印证的。》 众人问说《我们当行甚 么、才算作神的工呢。》耶稣回答说《信神所差来的、这就是作神的工》 神所派来的耶稣是供给真的灵性食 物的,信这个就是最重要的。

ガリラヤの人たちは「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるし を行ってくださいますか、わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに 与えて食べさせた』と書いてある通りです。」すると イエスは「はっきり言っておく、モーセが天から のパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパン は、天から降って来て、世に命を与えるものである。」と言われました。イエスこそ、天から降って来て 、世に命を与える命のパンなのであります。この霊的な命のパンは「その命のパンをいつも私たちにくだ さい」と求めただけで与えられるものではありません。

加利利的人说《你行甚么神迹、叫我们看见就信你.你到底作甚么事呢。我们的祖宗在旷野吃过吗哪、如经 上写着说、『他从天上赐下粮来给他们吃。』》耶稣就说《我实实在在的告诉你们、那从天上来的粮、不是 摩西赐给你们的、乃是我父将天上来的真粮赐给你们。因为 神的粮、就是那从天上降下来赐生命给世界的 》耶稣就是从天上降下来的生命粮。这灵性生命粮并不是只要求说《那个生命粮,总是供给我们》,就给我 们的。

イエスは「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じ る者は決して渇くことがない。」と言われます。人々の霊的な飢え渇きを永続的に満たし得る命のパンは 、イエスご自身であります。父なる神によってイエスのみもとに導かれ、イエスを御子キリストと信じて 、イエスにすべてを任せる者にのみ、この命のパンが与えられます。そして、イエスを信じて命のパンを 与えられた人々は、決して失われることはなく、この世で肉体的の死を経験しても、終わりの日によみが えらされ、永遠の命の完成を見るのであります。

耶稣说《我就是生命的粮.到我这里来的、必定不饿.信我的、永远不渴。》这生命的粮能满足我们灵性 饥渴永远就是耶稣本人。我们被父神领导去耶稣那儿,信耶稣为神子基督,给他委托我们所有的,只有这样 的人才得到生命的粮。还有信耶稣得着了生命粮食的人人都不会再丢了,他们虽然在这世界上经验肉体的死 亡可是到末日被复活就都能看见永生的完成。

37~40節を読みます。主イエスは「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。」と言わ れます。そして「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしに なった方の御心を行うためである。」と言われます。 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたし に与えて下さった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。」と言われます。そして 「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日 に復活させることだからである。」と言われます。

请看37-40节。主耶稣说《到我这里来的、我总不丢弃他》 还说《因为我从天上降下来、不是要按自己的 意思行、乃是要按那差我来者的意思行》 也说《差我来者的意思、就是他所赐给我的、叫我一个也不失落、 在末日却叫他复活》 还说《因为我父的意思、是叫一切见子而信的人得永生.并且在末日我要叫他复活》 今朝の信徒の友には、「私たちは心のどこかで、自分の理想的な救い主の像を作り上げていないでしょ うか。主イエスは、人間の願望の像に合わせて、この世に遣わされたのではありません。また、ご自身の 意思の実現のためでもありません。父なる神の御心を行うためにこの世に来られたのです。 その父なる 神の御心とは、主イエスと結ばれた一人一人が永遠の命を得ることであり、復活の命を得ることです。そ のために主イエスは、ご自身の命を朽ちないパンとして差し出されます。 父なる神は、御子を死に渡さ れるほどに惜しみなく、私たちに永遠の命を与えようとしてくださり、主イエスは、その御心のために一 心に歩まれたのです。」と解説されています。

今早信徒之友解释说《 我们在心中的部分里是不是做成自己理想的救主偶像。主耶稣并不是靠人愿望的 画像来被差来这世界的。他过来这世完成父神的旨意。这父神旨意就是与主耶稣连接的每一个人都得到永生 ,得到复活的生命。为这个,主耶稣把自己提交为不朽的粮。父神把神子交给死亡,一点儿没有可惜什么, 我们把永生都要给我们了,主耶稣为他旨意专心走路过来了。 》

2019年4月28日 説 教 要 旨

聖 書 マタイによる福音書 28 ;

説 教 題 「 すべての民を弟子とせよ 《使万民做我的门徒》

「さて、11人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。」とあります。その山がどこであ ったのかは書いてありませんが、主イエスは「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤに行く、(26;32) と言っ ておられました。よみがえられたイエスが弟子たちに姿を現わされる時は、弟子たちが予測できない時と所で突然姿を現わ されたことが多いのですが、この時は前もって指示しておかれた山でありました。弟子達はイエスを待っていてイエスに会 い、ひれ伏して礼拝しました。しかし、疑う者もいたと書かれております。いつの時代でも、超自然的なものに対してある 程度までは受け入れても、そのまますべてを信じることのできない人があるのも自然なことだと思います。

述说《十一个门徒往加利利去、到了耶稣约定的山上。》没写那座山在哪儿,可是主耶稣曾经说过 但我复活以 后、要在你们以先往加利利去。 复活了的耶稣到门徒那儿显现的时候都是突然的很多,是门徒们想不到的时间和 地方,这时候是耶稣提前给他们提示的山上了。门徒们等耶稣来就去跪拜他了。可是也述说有的怀疑了。在什么 时代有的人能接受超自然的事情不多,可是不能接受全部,这是很自认的情况。

主イエスはいろいろな方法でご自分の姿を弟子たちに現わして、弟子たちが見ても見なくても、常に彼らのそばにいるこ とを示されました。復活の日の朝早くマグダラのマリアは、空になった墓の外で泣いていました。天使から「なぜ泣いてい るのか」と聞かれて「わたしの主が取り去られました。どこにおかれているのかわかりません。」と言いながら後ろを振り 向くと、イエスの立っておられるのが見えましたが、それがイエスだとはわからなかったのです。イエスから「なぜ泣いて いるのか、誰を捜しているのか」と尋ねられてもまだ気が付きませんでした。イエスから「マリア」と呼ばれてはじめてそ れが誰であるか気づきました。それはよみがえられた主ご自身でした。マリアは弟子たちのところへもう一度戻り、「わた しは主を見ました」と告げ、主から言われたことを伝えました。(ヨハネ20章)

主耶稣用各样办法来给门徒们显现了,不管门徒们见到了没有,他教了他总是跟门徒们在一起。复活了的那天 早上抹大拉玛利亚在空的坟墓外边哭着,天使问说《你们为什么哭了?》 她们就回答说《有人把主从坟墓里挪了 去、我们不知道放在那里。 他回头看了就看见耶稣站着,可是他还不知道是耶稣。耶稣问她说《你为什么哭了 ,找谁呢?》 耶稣叫她《玛利亚》的时候她就知道是誰。是复活了的主本人。玛利亚再回去门徒们那里给他们说 《我见了主》也告诉他们主所说的话了。

その同じ日に、エルサレムから11キロほど離れたエマオという村へ向かって歩いている二人の弟子にイエスが近づいて 一緒に歩き始められましたが、二人にはそれがイエスだと分かりませんでした。イエスが「歩きながら話しているのは何の ことですか」と言われたので、クレオパと言う人が「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あ なただけはご存じなかったのですか」といちばんよく知っているイエス本人に向かって言いました。イエスが「どんなこと ですか」と言われると、二人は得意になってエルサレムで起こったことを話し出しました。「ナザレのイエスのことです。 この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たち は、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを開放して下さる と望みをかけていました。しかも、そのこがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわた したちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓に行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使が現れ、『 イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間のものが何人か墓に行ってみたのですが、婦人たちの言った通りで 、あの方は見当たりませんでした。」そこでイエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったこ とすべてを信じられない者たち、メシアはこう言う苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」そして、モーセ とすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明されました。

在同日从耶路撒冷有11公里的地方有以马忤斯,有两个门徒往那个村庄走路了 耶稣近他们跟他们一起同行了 。他们还不认识耶稣。耶稣对他们说 你们走路彼此谈论的是甚么事呢 他们就站住、脸上带着愁容。 你在耶路撒冷作客、还不知道这几天在那里所出的事么 耶稣说 甚么事呢 就是拿撒勒人耶稣的事.他是个 先知、在 神和众百姓面前、说话行事都有大能。祭司长和我们的官府、竟把他解去定了死罪、钉在十字架上。 但我们素来所盼望要赎以色列民的就是他。不但如此、而且这事成就、现在已经三天了。我们中间有几个妇女使 我们惊奇、他们清早到了坟墓那里.不见他的身体、就回来告诉我们说、看见了天使显现、说他活了。又有我们 的几个人、往坟墓那里去、所遇见的、正如妇女们所说的、只是没有看见他 耶稣对他们说 无知的人哪.先知所 说的一切话、你们的心、信得太迟钝了。基督这样受害、又进入他的荣耀、岂不是应当的么 于是从摩西和众先知 起、凡经上所指着自己的话、都给他们讲解明白了。

イエスはなおも先へ行こうとされましたが、二人が「一緒にお泊り下さい」と無理に引き留めたので、イエスは共に泊ま るために家にはいられました。食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しにな りました。その様子で、二人はイエスだと分かりましたが、その姿は見えなくなりました。二人はすぐにエマオの村を出発 してエルサレムへ戻りました。そこには11使徒とその仲間が集まって「本当に主はよみがえられた」と言っておりました 。二人も、道で起こったことや、パンを裂いて下さった時にイエスだと分かったことを話しました。

将近他们所去的村子、耶稣好像还要往前行。他们却强留他说 请你同我们住下吧。 耶稣就进去、要同他们住下 。到了坐席的时候、耶稣拿起饼来、祝谢了、擘开、递给他们。他们的眼睛明亮了、这才认出他来.忽然耶稣不 见了。他们就立时起身、回耶路撒冷去、正遇见十一个使徒、和他们的同人、聚集在一处说《主真的复活了》 两 个人就把路上所遇见、和擘饼的时候怎么被他们认出来的事、都述说了一遍。

こういうことを話しているうちに、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち「あなたがたに平和があるように」と言われまし た。彼らはただ驚き、声も出せずに遠巻きに見ておりました。イエスは「なぜ、うろたえているのか、どうして心に疑いを 起こすのか、わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。」と言って十字架につけられた時の釘跡を見せられまし た。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスが、「ここに何か食べ物があるか」と言われたの で、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられました。そしてイエスは「次のように書い てある『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によって あらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」と言われま した。(ルカ24章)

正说这话的时候、耶稣亲自站在他们当中、说 愿你们平安。 他们却惊慌害怕、只定睛看着。耶稣说 你们为甚 么愁烦.为甚么心里起疑念呢。你们看我的手、我的脚、就知道实在是我了 耶稣就把手和脚给他们看。他们正 喜得不敢信、并且希奇、耶稣就说 你们这里有甚么吃的没有 他们便给他一片烧鱼。他接过来、在他们面前吃了 。又对他们说 照经上所写的、基督必受害、第三日从死里复活.并且人要奉他的名传悔改赦罪的道、从耶路撒冷 起直传到万邦。你们就是这些事的见证。

主イエスは弟子たちに「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわた しの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたすべてを守るように教えな さい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と言われました。 耶稣给门徒们说《天上地下所有的权柄、都赐给我了。所以你们要去、使万民作我的门

2019年4月21日 説 教 要 旨

聖 書 ヨハネによる福音書 20 ; 118

説 教 題 「 主の復活の朝 」

 金曜日が受苦日でした、そして金曜日の日没から安息日が始まります。安息日は、土曜日の日没で終わりますが、夜はお墓に行けないので、週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行きました。そして、墓から石が取り除けてあるのを見ました。彼女はだれかがイエスの遺体を他の場所に移したのだと思い込み、走って行ってシモンとイエスが愛しておられたもう一人の弟子に伝えした。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか私たちには分かりません。」そこでペトロともう一人の弟子は外へ出て墓に行きました。二人は一緒に走りましたが、もう一人の弟子の方がペトロよりも早く走って先に墓につきました。彼は墓には入らず、身をかがめて、墓の中をよく見ると、イエスの体に巻いていた亜麻布だけが見えました。後から着いたペトロは、すぐ墓の中に入り、亜麻布が置いてあるのを見した。イエスの頭を包んでいた覆いは,体を包んでいた亜麻布と同じところにはなく、離れた所にありました。それから、先についたもう一人の弟子も墓の中に入って来て、体に巻かれていた布と頭に巻いていた布が、イエスの遺体が納められたままの位置にあり、誰も手を触れた形跡がないのに、それに包まれていたイエスの遺体がすっぽり抜けたままになっているのを見て、主の体がだれかによって取り去られたのではなく、神の力によってよみがえらされたのだと信じたのです。まずイエスの復活を信じたのです。それから、イエスが死人の中からよみがえらなければならないと言う聖書の言葉を正しく理解したのです。それから、二人は家に帰って行きました。

 マグダラのマリアはペトロともう一人の弟子たちよりかなり遅れてもう一度墓にやってきました。イエスの体をだれかが取り去ってしまったと思って墓の入り口で声を上げて泣いていました。泣きながら身をかがめて墓の中をよく見ると、イエスの遺体の置いてあったところに、白い衣を着た二人の天使が見えました。天使たちは「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言いました。マリアが「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」と言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えました。それがイエスだとはわからなかったのです。イエスはマリアに「婦人よ、なぜ泣いているのか、誰を捜しているのか。」と言われました。マリアはだれかがイエスの遺体を運び出したものと思い込んでいたので、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしがあの方を引き取ります。」と言いました。イエスが「マリア」と呼ばれると、マリアは自分の名が呼ばれたとき、それが誰であるかはっきりと分かって、ヘブル語で「ラボに」と言いました。「先生」と言う意味です。言いながらマリアはイエスにハグしょうとしましたが、イエスは「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。」と言われました。そしてマリアには大切な務めが与えられました。

 「わたしの兄弟たちのところに行ってこう言いなさい『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」告げなさいと命じられました。マリアはエルサレムの近くにいた弟子たちのところへ行って、復活のイエスにお会いしたことと、イエスから伝えるように言われたことを告げました。

 今朝の信徒の友には「復活の朝、墓の外で泣くマリアは後ろを向きましたが、そこにいる人物がイエスとは気づきませんでした。二度目、今度は名を呼ばれて振り向きました。「ラボにー」ようやく会えた!でもなぜ一度目に気付かなかったのでしょうか一度目は物理的に後ろを振り向いたのです。せっかく教会や聖書に接したのに心にまでは届かなかった出会いのようです。一方、一瞬でもなぜか気になって仕方のない出会いと言うものがあります。そのときは、実はあなたの名が呼ばれているのです。 マリアは「マリア―」と懐かしい声で呼ばれて身震いしたでしょう。マリアは、一度目は自分の後ろを、二度目は神の国へと「振り向いた」のです。」と解説されています。 

2019年4月14日 説 教 要 旨
聖 書 ルカによる福音書 22 ; 39~46  路加·22:39-46
説 教 題 「 御 心 の ま ま に 」 《按照旨意》
 イエスは弟子たちと最後の晩餐の後、二階の広間での説教が続きましたので、39節、イエスはそこを出
て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちもついて行きました。イエスは、日中は神殿の
境内で教え、夜になるとオリーブ畑と呼ばれる山で過ごされていました。いつもの場所に来るとイエス
は弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい。」と言われました。しかし弟子たちは悲しみの果て
に眠り込んでしまいました。弟子たちはイエスが二階の広間で話された、霊的な戦い、試練、サタンの
ふるいにかけられることについては理解できませんでしたが、間もなく先生と別れなければならないこ
とは分かりましたので、その悲しみの果てに彼らはあまりの緊張続きから眠ってしまったのでした。
耶稣跟门徒一起吃过最后的晚餐,上楼给他们说教了。39节然后耶稣离开那里,往橄榄山去了,门徒也跟随他
去那里。耶稣白天在神殿里教众人,晚上去橄榄山过夜了。他们到照常的地方了,耶稣就教门徒说《你们要祷
告、免得入了迷惑。》可是门徒他们因为忧愁都睡着了。门徒在楼上听过属灵的争战,试探,有撒旦的试探薛
都不懂了可是也听过他们快要跟老师分开就理解这事,所以他们很发愁紧张而睡觉了。
 主イエスは弟子たちと少し離れた所で、ひざまずいてこう祈られました。「父よ、御心なら、この杯
をわたしから取り除けてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」
わたしも肺がんになったとき、「癒してください」と言う祈りは「駄々っ子」の祈りのように思えたの
で「御心のままに行ってください」と祈りました。後で教師会の時に話しましたが「まず癒してくださ
いと祈るべきだと思う」と言われました。それからは、まず自分の願いをはっきり述べて、その次に御
心が行われますようにと祈るようにしています。他の人のために祈る時も、まず人の願いをはっきり祈
り、続けて、御心にゆだねることができますようにと祈るようにしております。
主耶稣在离门徒远点的地方跪下祈祷说《父阿、你若愿意、就把这杯撤去.然而不要成就我的意思、只要成就
你的意思。》 我以前得了肺癌的时候,祈祷说《医治我》这祈祷我感觉太自私了,所以我祈祷说《请按照您的
旨意给我做》 但在以后有教师会的时候我把自己的情况告诉教师会了,可是他们说先要祈祷说《请医治我》。
所以以后我先向神祈祷说我的愿望很清楚,然后祈祷按照神旨意做。为别人祈祷的时候先要听他的愿望很清楚
,接着祈祷说愿意能委托神的旨意。
 主イエスは、初めに「父よ、御心なら、この杯をわたしから取り除けてください。」と祈られました
。「この杯」と言うのは、十字架のことであります。イエスの願いを言えば、この神の怒りの杯を過ぎ
去らせていただきたい、取り除けていただきたいと言うのであります。自分の願いとしてはこう願って
いるのですけれども、続けて、「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」と
祈られたのです。この「わたしの願いではなく」てあなたの御心のままに行ってくださいと言う所が大
切だと思います。祈りと言うのは、わたしの願いを、神様の願いに調整していくそういう過程なのです
。榊原先生は「祈りと言うのは、わたしの願はこうなのだけれど、神様の願へとその願いを合わせて行
こうとする営みなのです。…自分の願を神の願へとあわせる、そのことのために格闘すること、これが
祈りなのです。」と言われました。(ルカ福音書講解6 194ページ)
主耶稣先祈祷说《父阿、你若愿意、就把这杯撤去》 《这杯》是十字架。耶稣的愿望是把这杯撒去。自己的愿
望是这样,可是接着祈祷说《然而不要成就我的意思、只要成就你的意思。》《不要成就我的意思,只要成就你
的意思》这是最重要的。是我的愿望跟神的旨意调整的过程。榊原先生说《祈祷是这样,我的愿望是这样,要
跟神的愿望调和,祈祷是这经营。自己的愿望跟神旨意调和,为了这事要战斗,这就是祈祷。》
 主イエスは「ひざまずいて」祈られましたが、ユダヤ教では立って祈るのが普通でした。ファリサイ
派の人と徴税人のたとえで(18;11~13)は、ファリサイ派の人は「わたしはこの徴税人のような人でない
ことを感謝します。」と祈り、徴税人も遠くに立って胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんで
ください。」と祈りました。当時のユダヤ教徒の祈りの姿勢は立って祈りました。主イエスはひざまず
いて祈られました。使徒パウロも「わたしは御父の前にひざまずいて祈る」(エフェ3;14) と書いていま
す。「立って」祈るユダヤ教徒に対して、「ひざまずいて」祈るキリスト者の祈る姿勢がここから始ま
ったと思われます。
主耶稣跪下祈祷了,可是犹太教都要站着祈祷,是他们的一般。法利赛人和税吏的例子来说,法利赛人祈祷说
《神阿、我感谢你、我不像这个税吏。》那吏远远的站着、连举目望天也不敢、只捶着胸说《神阿、开恩可怜
我这个罪人。》 当时犹太教的人都站着祈祷了。主耶稣先跪下祈祷。使徒保罗也述说《我在父面前屈膝》
对比《站着》祈祷的有犹太教人,有《跪下》祈祷的基督徒,基督徒的祈祷态度应该从这里开始了。
 主イエスが「しかし、わたしの願ではなく、御心のままに行ってください。」と祈られたとき、〔す
ると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が
血の滴るように地面に落ちた。〕と43と44節は、かぎかっこで包まれております。聖書の凡例によれば
、〔後代の加筆とみられるが年代的に古く重要である個所を示す〕と説明されています。イエスの祈り
を天使が天から現れて力づけたと言うのであります。祈りと言うのは私たちの力と熱心で続けられるも
のではありません。イエスさまでさえ天来の助けを得て、それで熱心な祈りの格闘をずーっと続けるこ
とがお出来になったのであります。パウロも書いています「どのような時にも、”霊”に助けられて祈り
、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(エフ
ェ6;18)このように聖霊に助けられて初めて、わたしたちは祈り、願い求め、根気よく祈り続けると言
う祈りの生活ができるのであります。
主耶稣祈祷说《不要成就我的意思、只要成就你的意思。》 这时候《有一位天使从天上显现、加添他的力量耶
稣极其伤痛、祷告更加恳切.汗珠如大血点、滴在地上。》43和44节都有记号。按照圣经的例子来说这记号意
思是后代加文的,可是年月很古老又很重要的地方,有这说明。天使从天下来鼓励了祈祷着的耶稣。祈祷并不
是靠我们的力量和热情而继续的。耶稣也靠天来的帮助来才能继续做很热情的祈祷斗争。保罗也述说《靠着圣
灵、随时多方祷告祈求、并要在此儆醒不倦、为众圣徒祈求》 这样靠圣灵的帮助我们才能祈祷祈求,能继续祈
祷,就运行祈祷生活了。

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